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April 02, 2005

国家と地方自治の定義

 日本の政治学あるいは政治の現場において、「国家」や「地方自治」という用語が混乱している。この混乱は非常に深刻なものだ。なぜなら、この用語の混乱が、実は日本人の国家に対する認識を曲げているからだ。国家に対する認識が混乱しているため、地方自治に対する認識も曲げられている。根本的な認識が曲げられているから、制度や政策もチグハグなものになってしまう。
 混乱の原因は、日本の政治学や報道を含めての政治の現場で、国家という用語と、政府、国あるいは邦という用語が整理されないままに使われていることに尽きる。それらを全て「国(クニ)」として表現して、適当に使い分けているから、誤った国家観を持つことになってしまうのだ。
 端的な例を示そう。
国家、政府、祖国という言葉を全て「国」で表現すると、例えば「わが国の国が国の持つ伝統・文化を守るため、国の体制を見直し始めている」、という文章になる。これを正確に表現すれば、「日本の政府が祖国にある国民の伝統・文化を守るため、国家の体制を見直し始めている」というものになるはずだ。
また、日本国憲法の前文の英語版と日本語版を比較してもらいたい。それにも誤訳が多くあることに気づくはずだ。政府(government)と訳すべき箇所が国になっていたり、国家(State)と訳すべき箇所が国になっていたりする。
このように、日本の政治を語る場合において、国家、政府、祖国といった用語が昔から混乱しており、それが未だに続いているのだ。そのため、「わが国はケシカラン」という国が、日本国を指している、それとも政府を指しているのか、を文脈から判断するしかないのだ。こうした実態が、日本人の政治に対する感覚、あるいは国家を自らが担おうとする感覚が麻痺してきている根本的な原因の一つだと考えられる。
改めて、用語の定義を示そう。
国家(State)とは、国全体のフレームワークを示す用語であり、国民・領土・政府機構(地方政府を含む)といった概念を内包するものだ。つまり、国民一人ひとりも国家の構成要因である、ということがまず認識すべき重要な点だ。
政府(government)とは、国家のマネジメントをする機構であり、決して国家・国とは同義ではないことに留意しなくてはならない。
国(country)とは、祖国(home land)と同義で、文化的、精神的な存在を示すものであり、機構としての国家(State)とは異なる概念だ。
もう一つの国(nation)とは、民族的なものを指し、これも国家(State)とは異なる概念だ。ちなみにナショナリズムを決して国家主義(国家のみを絶対とする思想)と理解してはならない。むしろ民族を尊重する思想から生まれるイデオロギーとして理解すべきだ。
こうした用語の定義をした上で、地方自治という用語も問い直すべきだ。そうすれば地方自治(local autonomy)は、決して地方政府(local government)と同義ではないことが判るはずだ。日本で地方自治を議論していると、地方政府の機構をどうするか、という問題ばかりになってくるのは、地方自治と地方政府が混同して語られているからに他ならない。地方自治とは、その中に住民も内包しているのだ。地方自治とは、住民自らが統治することを基本原理にしているはずなのに、地方政府の機構や政策ばかり議論していたのでは、「住民が自ら治める」という基本原理を日本で果たすことはできない。日本に地方自治は存在しない、とさえ揶揄されるのはそのためだ。
国家にしろ地方自治にしろ、「国民や住民がみんなで支えていくもの」というものにしなくてはならないはずだ。防災や国防を、政府機構だけに任せておけるはずはない。防災にボランティアが活躍したのはそのためだ。そうすると、国防も、防衛庁の官僚と、自衛官だけに任せておかなくてはならないものなのかどうか。国家の構成要因である国民も国防を担う役割があるはずだ。全てが他人任せ、他人事のように語られる国家の基盤は脆弱なものだ。
日本において、国家や地方自治が、国民や住民にとって自分たちの問題としてではなく、どこか他人事のように「国や自治体はケシカラン」とだけ語られているのは、こうした用語の混乱が大きな原因の一つなのだ。

地方議会の課題

出典「地方政治情報」No.39  民社協会発行 2005年3月1日

地方議会の課題 -空白の第1章―


はじめに

 地方分権が進められている中で、地方議会改革は「空白の第一章」と呼ばれている。つまり、ほとんど議論の俎上に登らない分野だと言うことだ。自治体合併、三位一体改革あるいは道州制といった議論が華々しくされる一方、地方自治を具現化していく上で最も重要な機関である地方議会改革が全く考慮されていないのは一体なぜなのだろうか。その理由は、地方議会に対する国民や学者あるいはジャーナリストの無関心が大きい。地方議会の抱えている課題が広く国民各層の関心を呼ばないのだ。このことは、日本の地方自治の未成熟さを端的に現しているものと言えよう。
 もともと日本の明治以降の近代化は中央集権的体制を整備することと同義だった。地方自治は片隅におかれ、ほとんど形式的なものに過ぎなかった。ようやく、1990年代から、
中央集権的な「日本の国の形」のあり方が問われ始め、地方分権の議論が盛んに行われるようになった。にもかかわらず、依然として地方議会のあり方が問われることは少ない。地方自治とは「民主主義の学校」と呼ばれるように、国民が等しく国家を民主的に運営していくために、政治の基礎を実践する場所だ。したがって、地方自治における地方議会の役割は極めて重要なはずだ。しかも、地方議会の役割とは、国民の日常生活や地域性に密着した問題を取り扱うだけに、国民にとっては国会と同じレベルで重要なものだ。
 以上の観点から、地方分権が語られ、しかも憲法改正が視野に置かれている今日、地方議会の持っている根本的な課題について示していきたい。

地方議会の多様性の喪失

 日本の地方議会は、金太郎飴を切ったように全国一律だ。日本の地方議会制度は、1200万人の人口を擁す東京都議会から、人口わずか500名たらずの村議会に至るまで、全くといってよい程変らない(地方自治法第94条では町村議会は住民総会で代替可能と規定されているが、そうした手法をどこの町村も採用していない)。
 本会議や各種委員会あるいは幹事長会議など、ほとんど全ての会議の進め方が全国一律だ。法律上でもある程度許容範囲はあるものの、全国一律に運営していこうとする傾向が非常に強いのが日本の地方議会の特徴だ。地方自治の多様性や自律性といったものは、少なくとも地方議会の中で姿を見せることは少ない。
 地方の多様性や自律性を求める地方分権の掛け声とは裏腹に、地方議会制度がますます一元化していることに対して、異議を唱える声はほとんど無い。ましてや憲法改正論議の中では全く聞こえない。
 例えば、1月20日に発表された、世界平和研究所(会長、中曽根康弘元総理)の憲法改正試案の中身を見ても、地方議会のあり方が問われている箇所はどこにも無い。この現象は、他の団体や政党の改正試案を見ても同様だ。憲法改正の議論の中でも、地方議会をどのようにすべきか、という議論は全くされていない。

地方議会の権限の縮小

 地方議会には、地方自治法第96条によって様々な事項に関する決定権が付与されている。しかし、それは決定事項についての規定であり、実際には通常考えられるよりも議会の権限は制限されている。議会は万能では決して無い。むしろ、首長に予算提出権と人事権が握られており、議員ができることは、首長に対して質問することと、首長が提出した議案に賛否を表明することだけだと言われている。特に、現在のように政策についての調査機能をほとんど持たない地方議会である限り、議会が自ら議案を提出することは困難である。
欧米で見られるように、地方自治において議院内閣制を採用している国の地方議会と、日本のようにミニ大統領制度を採用している国の地方議会とは、全くその権限が異なる。議院内閣制の場合、内閣を構成する議員が執行権をも担う。日本の国政と同じだ。もしそうなれば、議員の権限というものは、重要かつ幅広いものになる。ミニ大統領制の場合、首長の権限を大幅に制約すること(例えば予算提出権を議会が持つなど)が基本原則となるが、日本の場合は逆で、議会の権限は厳しく制約されているのだ。
地方自治に多様性が求められる今日、地方自治においても議院内閣制を採用するのか、ミニ大統領制を採用するのかを含めて、地方自治体が自ら決定すべきものだが、日本の憲法はそれを許容していないし、憲法改正論議の中でも全く考慮されていない問題である。
 もちろん、議員の権限を拡大すれば良い、というものではない。しかし、現在のような地方議員の権限では、存在するだけに価値がある、と揶揄されても仕方ない。

議会運営の柔軟性の喪失

 議会運営も地方自治法の中で厳格に規定されている。議会の調査権に属する事務と言えども予算を伴うものについては、予算執行権を持つ首長との協議が必要となる。予算に盛り込まれない内容の問題が発生した場合、地方議会としての対応は当然のごとく後手後手に回る。災害などの緊急時において、地方議会がほとんど機能を発揮しないのは、緊急事態に議会など開く暇も無いことは当然だが、そうした緊急時には役割を果たす必然性も必要性も無い状態だ。これが果たして本当の地方議会の姿なのかは大いに疑問が残る。
 また、現在の法律上の解釈として、議会の権限は会期中にのみ存在する、とされている。つまり、会期外で発生した問題については、臨時議会を開催しない限り、議会の権限は発生しない、という解釈だ。したがって、議員の調査権に至っても、本会議が開催され、そこで議案として採択されない限り、議員の調査権そのものが存在しないことになっている。実際の運用面では柔軟に対応しているのだが、万事がこの状態だ。会期外での議員の調査に対して官僚が応じているのは「サービス」だ。サービスである限り、その対価が求められる。その対価は「あまりこの問題に突っ込んでもらいたくない」という官僚による独特の判断がある。官僚機構を住民の利益に結びつくように上手に動かすのは、個々の議員の技量による。だが、議会運営をもっと柔軟なものにしていかないと、官僚主導型の地方自治運営を助長するどころか、議会として緊急事態へ速やかに対処していくことなど土台無理な話なのだ。

選挙の方法論の一元性

 地方議会の選挙の方法論は、公職選挙法で全国一律に厳しく規定されており、都道府県議会議員選挙、政令指定都市議会議員選挙、そして市町村議会議員選挙で、その内容はほとんど変らない。選挙区割が多少異なる程度だ。国政選挙レベルでは、政党比例代表制度あるいは小選挙区制度といったバリエーションが試みられてきたが、地方議会の場合にはそうした試みはほとんどされていない。
 この点も、地方自治の多様性を実現しようとする場合、地方自治体の代表者を選ぶ選挙の方法論もまた多様なものであっても良い、という議論があっても全くおかしくないはずだ。しかし、この点についての議論も問題提起もほとんどなされていない。

開かれた議会へ

 住民に開かれた地方議会を作る、というスローガンがしばしば唱えられる。そのスローガンそのものは大切なものだ。しかし、開かれた地方議会というものが、地方議会のテレビ放映といったものに矮小化されていることは残念だ。
 開かれた地方議会というものは、いかに住民や官僚といった議会の周辺に存在する人たちと、実際に様々な議論を行うことができるか、というものでなくてはならない。議会とは官僚と議員との間の議論だけを行う場所ではない。議員と議員、あるいは議員と住民、そして住民どうしの議論といったものを、いかに地方議会の中で行うことができるのか、という点が重要なのだ。
 例えば、お隣の台湾の地方議会に行けば、必ずといってよいほどホールが併設されている。そこでは、議員の様々な行事を行うことができるし、議員と住民との直接対話の場所としても使うことができる。日本においてそうしたホールが常設されている地方議会は全く無いといって良いだろう。地方議会を住民にも開かれた場所にしていくことが大切なことだ。

終わりに

 現在の国民の価値観や生活スタイルは多様性に満ちている。地方も、狭い国土とは言え、地域毎に違いがある。したがって、地方自治は多様な価値観を尊重するものでなくてはならない。ところが、現在の地方議会は全国的に見ても、全て同じ形態と同じ運営をされている。そもそも、全国一律が良いという思想が根強かった。自分たちの自治体が全国的に同じであることに安心していた。そのため、地域の自主性あるいは自己責任というものが阻害されたとも言える。そして、このことが、全て中央に依存し、中央の決定のままに流されてしまう地方自治が長く続いてきた原因の一つでもある。
 憲法改正論議の中でも、「地方議会改革は空白の章」とならないように、地方議員自らが、地方議会の在り方を問い直していく努力をすべきだ。新しい地方分権の姿を、中央集権的に中央が決定していく、といった論理矛盾、行動矛盾は是非とも回避してもらいたいものだ。そうでなければ、地方分権あるいは地方自治は、再び「絵に描いた餅」になってしまいかねない。

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