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3 posts from May 2007

May 30, 2007

顧客主義的民主主義

 先日、民放のある番組で、日本でも有数のレストラン・チェーン店の社長の言葉が紹介されていた。それは、「お客様のクレームをゼロにする。お客様のクレームは全て正しい」というその社長の社員に対する訓示である。
 レストランでの客からのクレームを、店の経営改善に生かす、という前向きの発想ということでその番組では紹介されていた。この発想は、確かに客からのクレームというマイナス要因を、店の経営改善にプラスに転換していくという面では素晴らしい発想であろう。
 さて、ここまでは「へぇー。そんなものかなぁ」と思っていたところ、ふと、「そういえば、かつて同じようなことを言っていた某市の市長がいたなぁ」と思い出した。その某市長は、「行政は最大のサービス産業である」と宣言し、某市の行政改革を断行したことで有名である。 
 ただし、その行革とは、「行政は最大のサービス産業」の名の下に、多額の財政負担をして、市内各所に巨大な施設を作ったのであった。そして、負の遺産を全て某市に残したまま、本人は国会議員へと転進(しかも県外へ)をしてしまった。某市に残されたのは、多額の負債だった。そのツケは、確実に某市の市民へと還元されるのである。
 この会社の社長の発想と、某市の市長の発想を、一言で表せば、顧客主義的民主主義と言えるだろう。それは、顧客(市民)のニーズが最も大切なものであり、会社(市)はその実現のために最大限の努力を傾注する、というものである。
 この顧客主義的民主主義は、不思議なことに左右の陣営を問わず、全ての政治家が主張するイデオロギーとなっている。保守系の議員も、「市民のニーズを自治体の政策に反映させろ」と言い、共産党の議員も「市民の声を聞け」と言う。当たり前といえば、当たり前のことである。
 しかし、ここで立ち止まって、この顧客主義的民主主義を考え直さなくてはならない。
 その一つは、市民あるいは住民を「顧客」という、税金を払ってサービスの提供を受けるだけの立場に追いやってはいないだろうか、という点である。「住民は神様です」とばかりに、神棚に持ち上げておけば、静かにして何も文句も言わない存在になるのである。それは、逆に言えば、議員や行政にとって都合の良い存在になるのである。
 二つには、市民あるいは住民のニーズというものが、果たして合理性、妥当性があるものかどうかを、キチンと検証しなくてはならないのではないか、ということである。「住民は神様」であったとしても、誤った認識に基づいた合理性に欠くニーズが当然含まれているのである。それらの検証をしないで、そのまま「お客様は全て正しい」というわけにはいかないだろう。もし議員が、「お客様は全て正しい」と認識して、整合性も妥当性もない市民のニーズを行政に要求し続けたら、かつての革新自治体での財政破綻と同じ結果を招くのである。
 三つには、市民あるいは住民の側にとってもマイナスの作用が働くことである。それは、自分たちの存在そのものを小さなものにしてしまうことである。住民が顧客主義的民主主義を貫けば、税金さえ支払えば、あとはどのようなニーズであろうと要求し続けることに正当性があると誤認してしまう。地方自治というものが、住民にとって大切なものであるという意味は、住民自身が自らその自治体の運営に何らかの責任と義務を負う存在でなければならないという意味である。顧客民主主義は、地方自治にとって最も大切な住民の責任と義務というものを、住民自身の認識から失わせてしまうのである。

May 27, 2007

「数字はウソをつかない」という信仰

2007.5.27

 四月の統一地方選挙から一ヶ月が過ぎ、新議員はあいさつ回りや、議会人事の調整などで忙しい毎日だったことだろう。
 特に、新人議員にとっては、研修などを通じて、地方自治の実態の大まかな把握をしなければならない時期である。六月の定例議会が、デビュー戦になるのだから、一般質問などの準備も今から進めておかなくてはならないだろう。
 特に、新人議員としては財政の基本的な仕組みや、自治体の課題の把握に努めていなくてはならない時期である。そこで、新人議員には研修会と称して、自治体の職員から、自治体の財政について、様々な「数字」を提示されて、「ああでもない、こうでもない」という説明を受けることになる。その際、無限に存在するかのような数字と数式の羅列に、新人議員は戸惑うことになる。
 その戸惑いの裏をかくようにして、「数字はウソをつかない」とばかりに、数字が示され、「これがわが自治体の実態です!」と財政課長から説明される。そうすると、それを信じざるを得ないような数字の持つ説得力によって、新人議員は「わが自治体は大変なのだ」と一種の脅迫観念などが植え付けられることになる。「数字はウソをつかない」という信仰を、財政課長が新人議員に説法をしているようなものである。
 確かに、地方自治体の財政は厳しい。しかし、その厳しい実態を、財政課長の立場からだけの見方が全てを説明しているかというと、そうではない。その「そうではない」ということを主張し、首長に対しても異なる視点を示す役割りが、議員という存在なのである。
 個別の財政問題について説明することは次の機会に回すとして、ここでは「数字はウソをつかない」という信仰に対して、「そうであってはならない」ということを示しておきたい。

数字信仰は、財政の決定過程をブラック・ボックスにする。

 数字ばかりの財政資料を眺めていると、その数字が、結果だけを示していることに気付くはずである。予算は、各担当からの予算要求の結果である。また、決算も、各担当の支出の結果である。さらに、それらの数字を分析した各種の指標も、その分析結果だけが示される。
 一番判り易い指標が、財政力指数だろう。各自治体が総務省に提出した決算の数字を、総務省のコンピューターでいじくりまわして、各種の補正数値(これも何だかよくわからない)を掛け合わし、その結果を総務省が、各自治体に対して財政力指数というけったいな指標にして示すものである。交付金というこれまたけったいな資金をどのように配分するかという、配分の決定権を持っているのが財政力指数である。その数値によって、各自治体は一喜一憂することになる。
 要するに、財政の決定過程、すなわち、どこで、だれが、何を、どのように認識し、判断し、決定したか、というプロセスが一切ブラック・ボックスの中なのである。結果ばかり見せられて、「数字はウソをつきません」と言われても、「ああ、そうですか」とは簡単には言えないだろう。数字が出される過程が判らないようにされてしまっているのだから。

数字信仰は、数字を理解しない人を排除する

 財政課長から「数字はウソをつきません」と言われて、ひるまない議員はいないだろう。大方の議員は「そうですね」と納得してしまうだろう。数学が好きで、数字に強い、という人はあまり政治家にはいない。田中角栄などが「数字に強い」と評価されたのは、別に数学に強かったわけではなく、選挙区の得票数だとか、補助金だとか、そういう数字を記憶し、それを人に説明する時に説得力を持っていたという意味である。田中元総理だって、自治体の細かな財政指標を見せられれば「うざったい」と思ったことだろう。
 さて、「数字はウソをつきません」と財政課長から言明されることは、数字が苦手な議員にとっては、その場所からの「退避命令」がだされているようなものである。果敢に、「そんなはずはない」といった挑戦しようものならば、輪をかけて数字が示されるから、始末が悪い。数字は、その数字を理解できない人をその場所から排除するだけの「権力」を持っているのである。
 さらに、始末が悪いのが、「数字はウソをつかない」という信仰を頑なに守っている人たちの存在である。その人たちは、ペテロやパウロのごとく、数字を理解しない人を「啓蒙」しようとする。「啓蒙」される人はたまったものではない。もともと数字を理解できないのだから、その「啓蒙」は苦痛以外の何物でもないのである。

数字信仰は、全てを数字で判断し、判断できない現象を排除する

 数字信仰は、「数字はウソをつかない」という言明そのものがウソであることを隠してしまう。世界の現象の全てを数字で表すことなど、神様以外土台不可能なことである。不可能なことを、さも可能であるかのような信仰は「ウソ」であることの何よりの証明である。
 だいいち、「人はなぜ人を愛するのか」という素朴な疑問に対して、数字がその解を出し、それを証明することは不可能である。地方自治の中の問題でも、「なぜ人は投票にいかないのか」という疑問を、数字で説明できることはない。
 数字信仰の怖さは、数字で表すことのできない様々な現象への分析を、最初から考慮の外にしてしまうことである。数字で表すことができるものしか信じようとしない。
 高校の数学で習ったように「数字はウソをつかないが、本当のことも言わない」というのが正しい認識だろう。確かに、1+1=2という数式は、ウソをついてはいない。しかし、なぜ、1と1を足すと、2になるのか、という疑問に対しては、「そうなるからそうなんだ」という背理法からしか説明できないはずである(証明方法をご存知な方は、是非教えていただきたい)。
 さて、ここでイジワルな質問を想定してみよう。「私はリンゴを2個持っていました。泥棒が1個盗んだら、リンゴは何個になるでしょう」という質問である。それは2-1=1だから1個である。それは正しい。しかし、その泥棒の手元には、1個残っている。この世界に、リンゴはまだ総和として2個存在するのだが、数字上は1にしかならない。すなわち、「私がいくつリンゴを持っているか」という現象の説明にはなるのだが、「リンゴがいくつ存在するか」という現象の説明にはなっていない。最初の設問の際に、「私は泥棒にリンゴを1個盗まれましたが、リンゴはいくつ存在しているでしょうか」という質問にしなれば、誤った回答を導いてしまうのである。2-1=1という数式を信仰のように思っていては、イジワルな設問に対して「落とし穴」に嵌ってしまうのである。

終わりに

 いささか、地方自治とは無関係な議論にもなった。しかし、ここで指摘したい点は、新人議員にとって気をつけていただきたいことがあり、それは、数字ばかりを追って、しかも、官僚から示される数字が「正しい」と思い込んで議論することは、誤った認識や回答を導き出しかねないということを最初に知っておいてもらいたい、ということである。
 もちろん、全ての数値を最初から疑い、一つ一つ重箱をつつくような議論を議会でしてもらいたい、という意味ではない。議員にとって大切な点は、官僚とは異なる視点で、財政指標を含めて様々な現象を眺めていくことである。議員にとって、財政の数値や財政指標とは、基本的な知識として知っておくべきものである。それが金科玉条のようなものとなり、また「信仰」のようなものになってしまうことは避けなくてはならないということである。
 議員が財政について無知であってはならないが、官僚と同じ視点に立って議論してしまうと、官僚の掌に乗ってしまう。それを避けなければ、議員が財政を議論する意味も無くなってしまうのである。

May 26, 2007

恐怖心が全体主義を招く


                                                        2007.5.26
                                                            真鍋貞樹

 先日、ある匿名の方から連絡があった。それは「ある失踪事件の関係者だが、証言をすると何かあるのではないかと思うと怖くて証言できない」というものだった。
 こうした「自分の身に何かあるのが怖くて証言できない」という話はしばしば耳にするものである。
 確かに、事件の関係者にとって、自分の生命の危険を冒してまで、真実の証言をする、というのは実に勇気のいることだろう。自分自身ならともかく、身内の者に災いが及ぶのは避けがたい苦痛だろう。
 私としては、無理してまでも証言をしてもらいたい、という気持ちはないものの、真実を語ってもらえないことには、正直なところ「もっと勇気を持ってください!」と言いたいところである。
 さて、北朝鮮のような全体主義国家において、その体制を最も根幹の部分から支えているものは何だろうか。それが「恐怖心」である。政治犯収容所を国内に多数設置し、体制に対する不満や意見を少しでも口に出そうものならば、すぐさま国家保衛部の者がやってきて、裁判もなしに「お山行き」となる。「お山」に入れば、人間扱いどころか家畜以下の生活が待っている。罪状によっては、一生「お山」で運命を過ごすことになる。
 強制収容所が、北朝鮮人民にとっての「恐怖心」をもたらし、独裁政権に従属せざるを得ないメカニズムを生んでいる。全体主義国家を運営する上で、最も必要とし、最も効果的な手段が、人々を「恐怖心」で縛り上げることである。
 自由で民主的な国家というものには、人びとを恐怖心で縛る、強制収容所は存在しないのである。
 かつて、日本で最も自由な言論や活動が保障されている「サヨク」の人たちは、私が少しでも「君が代」や「日の丸」の話を出そうものなら、「ファシスト!」との「汚名?」を浴びせてくれたものだ。彼らにとっては、「君が代」や「日の丸」が、全ての国民を戦争へと駆り立てる全体主義の象徴なのであろう。「君が代」や「日の丸」のどこに、「恐怖心」が存在するのだろうか。彼らは、「君が代」や「日の丸」を歌ったり、見たりすることで、他者からの「恐怖心」を感じ取っているということだろうか。お幸せなものである。日本のどこに、強制収容所があるというのだろうか。逆に、日本の「サヨク」の人たちが憧れてやまなかったソ連や北朝鮮にこそ、強制収容所が設置されていたではないか。
 だとすれば、自由で民主的な国家や社会を維持していく上で最も大切な、一人の人間として考えるべきことが明らかになる。それは、「恐怖心」との闘いである。人びとが「恐怖心」を克復できず、それにがんじがらめに縛られれば、「恐怖心」は去っていくどころか、ますますその人たちを縛り上げていく。
 そこに、全体主義的な思想が入り込んでくるのである。例えば、人びとの「恐怖心」を利用して、人びとが真実を証言していくことを阻むことである。北朝鮮の体制が行なっているように、ウソの歴史を強制してくるようなこともある。日本では、従軍慰安婦問題もその例である。「サヨク」の人たちにとって恰好の素材であるこの問題は、真実とは無関係に、「恐怖心」によって、真実を語らせることを阻んでいるのである。もちろん、「ウヨク」の側にも、そうした人びとを「恐怖心」で縛り上げて、自分たちの都合の良い社会を作ろうとする輩はたくさんいる。街頭での仰々しい街宣カーの行列もそのためである。
 いずれにせよ、自由で民主的な国家と社会を維持することができてきたのは、こうした「恐怖心」との戦いの連続の成果である。国民の大多数が、知らず知らずのうちに、「恐怖心」の克復をしてきたのである。その蓄積がなければ、自由で民主的な国家と社会は永続しない。
 これからも、いつ、どこに、全体主義の「落とし穴」が待っているかもしれない。「落とし穴」の存在を恐れて、家に閉じこもっているわけにはいかない。「落とし穴」に嵌らないように、細心の注意をしながら、勇気を持って前に進んでいくしかない。
 冒頭の関係者に、こうしたメッセージを送ったのだが、返事は今のところない。
 


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