「人権」が国際政治の道具となっている
「人権」という言葉が、安易に政治的道具として使われ始めている。敵対国を非難する場合に、自国の「人権蹂躙」の実態を隠して、ひたすら敵対国の「人権」問題を、国際的にクローズ・アップしている。それがインターネット社会によって、瞬時に世界中にその声明なり談話なりが伝えられていく。そのプロセスでバイアスがかかり、誇張されていく。
いわゆる「従軍慰安婦」の米国議会での決議にしても、10人足らずの出席のもとでの「決議」にもかかわらず、さも議員の全員が出席した上での、日本非難に燃え上がっているかのように報道され、日本での喧騒が始まった。その喧騒を歓び、政治的に活用するのが、日本にいる「日本嫌い」の政治勢力であることはいうまでもない。
北朝鮮も同様に、自国での現在進行形の最悪の人権蹂躙を差し置いて、「従軍慰安婦」の問題と「強制連行」の問題を取り上げ、日本を「人権蹂躙した国」として非難することに忙しい。
こうした状況は、人権蹂躙の実態というものを逆に隠蔽させ、人権が国際政治的な「道具」として使われていることを意味している。
「人権」という概念は、指摘するまでもなく、近代化のプロセスから西欧に生まれた価値概念である。古典的な自由主義的理想主義の立場から「人権概念」を世界中に広め、飢餓、貧困そして紛争を終わらせる手段としてとらえられたものである。その延長線上に、1966年の国連における国際人権規約というものが生まれてきたのである。
ところが、今日の実態というのは、自由主義的理想主義の延長線上に「人権」がとらえられるのではなく、実際の武力の行使に替わった「口げんか」の中で、道具的に「人権概念」が利用されてくるに至っているのである。
こうした国際政治的な「人権蹂躙の非難合戦」とは全く別のレベルで、現実の人権問題が実際に行われているのである。北朝鮮やダルフールなどの実態がそれを如実に示している。
懸念するのは、日本において、この「人権蹂躙の非難合戦」のあおりを受けて、実際に北朝鮮の人権問題に取り組んでいる活動に、齟齬を来たさないかということである。拉致問題しかり。加えて、脱北者問題や強制収容所の問題なども、「人権蹂躙の非難合戦」の影に隠されてしまいそうである。つまり、日本国民が「人権」という概念に対して辟易してしまうことである。それを狙っての、北朝鮮による日本の非難である。だが、易々と日本国民が、そうした策略に引っかかるとは思えない。
ここは、日本国民が「非難合戦」に惑わされず、「人権」という概念の大切さと実態を、冷静にかつ深刻に受け止めて、北朝鮮に関する人権問題の解決に心を砕いてもらいたいものである。


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