シリーズ渡辺秀子・高姉弟事件 7
ユニバース・トレイディング社の犯罪
ユニバース・トレイディングは、昭和46年(1971年)6月30日に、当時の朝鮮総連第一責任副議長の金炳植が実質的に設立した会社である。会社の社長には、彼の大学時代の恩師が「飾り物」として就任した。その恩師を代表取締役にし、木下陽子こと洪寿恵他が取締役になっている。
社員数は約30名で、在日朝鮮人と日本人が勤務していた。
事業内容は、定款によれば、鉱石、鉄、非鉄金属、機械、医療器具などの輸出入と販売業となっている。
同社は、昭和59年(1984年)12月3日に解散の登記がされている。解散した理由は判らないが、実質的な経営者の金炳植が北朝鮮に召還されたまま日本に再入国できず、事実上の朝鮮総連内部の権力闘争に敗れたことが原因であろう。
しかし、同社のような偽装組織が北朝鮮にとっては必要なものであることには変わりはなかった。同社に勤めていた人物であるN.S.が、同年同月、別のユニバース・トレード㈱という似た名前で同種の会社を設立していることから、偽装解散だったとも考えられる。そのユニバース・トレードも、昭和58年(1983年)に解散している。さらに、N.S.は、ユニバース・トレードが解散した同年の5月に設立されたコスモマイクロ㈱に幹部として就職している。
ユニバース・トレイディング社の内部には、大学を卒業したエリート層を中心として二つの非合法的組織が編成されていたことが、同社に勤めていた関係者の証言からあきらかになった。
その一つが「ドミトル」である。彼らは、北朝鮮に留学した経験を持つ若い層で編成された留学学生同盟(留学同)である。
もう一つが「コロナ」と呼ばれる組織である。コロナに所属する工作員は、東京都小平市にある朝鮮大学校を卒業したメンバーである。7名から8名の若い者が選別されて、北朝鮮からの指令に基づいた様々な工作活動に従事していたといわれる。
これら二つの組織の関係は、コロナが工作の企画をたて、「ドミトル」がそれを実践したとされているが、実態はまだ明らかにされていない。
もちろん、こうした工作機関はこれらの二つの組織だけではなく、他にも多くの非合法組織が構成されていた。それぞれ縦系列の指示系統で運営され、相互の関係性は遮断されていた。
さて、金炳植は、総連の第一副議長(ただし、こうした役職名は本人がつけたものといわれる)であり、後に朝鮮総連内の激烈な権力闘争の結果、敗れる相手となった韓徳銖議長の姪の夫である。彼の経歴を追ってみよう。
旧制二高(現在の東北大学)を卒業。
1952年10月に設立された、朝鮮問題研究所の所長を務めた。
1963年1月、総連組織部長。
1963年9月、総連事務総局長
1971年に総連副議長に就任。対南非公然活動の総責任者となり、「ふくろう部隊」を設立。
1971年6月に、ユニバース・トレイディングを設立。さらに、東海商事、朝日輸出入商社、朝鮮特産物販売、朝鮮石材といった会社を設立。
1972年、北朝鮮に召還され、そのまま留め置かれて、失脚。
後に、国家副主席という名誉職を与えられが、実権はなし。
1999年、死亡。
渡辺秀子さん殺害の実行犯として指名手配された木下陽子こと洪寿恵は、1947年11月、長野県茅野市の生まれである。在日朝鮮人の両親のもと、二人兄弟の妹である。地元の高校を卒業し、東京の大学の英文科に進学した。
読売新聞(2007年5月1日)の報道によれば、大学進学時に朝鮮総聯からの奨学金を受け取ったことから、朝鮮総連との「暗い関係」が始まったという。そして、東京の大学生時代から、朝鮮総連の留学同に誘われ、そのまま朝鮮総連傘下の企業へアルバイトするなどして関係していったという。その最後の就職先がユニバース・トレイディングだったのである。彼女は発足当時から取締役として登記されていた。それぐらい金炳植から信頼を得ていたのであろう。
彼女の性格については、「凶暴」「ヒステリック」「やり手」というのが一般的な見方である。渡辺秀子さんを「アイスピックで殺した」「羽交い絞めにして殺した」「橋の上から落とした」というように、あらん限りの残虐性が物語られているが、本当なのだろうか。
読売新聞にも記述されているが、洪寿恵は琴で「さくらさくら」を弾くような感性の持ち主だったという。それが、なぜ拉致や殺害を指令するような犯罪をし、そして北朝鮮へと不毛な脱出をしていくようなハメに陥ったのだろうか。朝鮮総連に洗脳されたと見られているが、それ程までに人格が変わるものなのだろうか。
木下陽子の夫、Nとの出会いがどのようなものだったのかも判明していない。1977年に、在日朝鮮人で日本に帰化したNと結婚。Nもユニバース・トレイディングの社員であった。読売新聞によれば、二人は、事件後の昭和54年(1979年)、長野の実家に戻り、二人して「金を貸してくれ」と両親に頭を下げたという。その二人は、翌日には両親の元を去り、二度と茅野市の土を踏むことはないままに、同年5月、日本を後にしたのだった。
その後、2000年代になって、木下陽子が再び、日本にいる知人のところに「金を貸して欲しい」と国際電話で連絡をとってきたという。現在では、平壌に住んでいるというがはっきりしない。
北朝鮮で在日朝鮮人が生きながらえるには、日本の親戚からの仕送りしかないことは歴然としている。しかも、こうした事件の犯人として名指しされている人物である。北朝鮮が彼女をどのように扱っているか、想像するしかない。彼女もまた、北朝鮮の閉鎖社会の中で、生き抜くための算段を繰り返しているのだろうか。
