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9 posts from February 2011

February 21, 2011

マニフェスト・ファシズム

  民主党内の「16銃士の反乱」の趣旨は、「マニフェストをその通りに実現すべき」ということらしい。彼らの主張は「マニフェストは選挙民への公約(あるいは契約)だから、絶対に遵守すべし」ということのようだ。
もちろん、政治家たるもの、選挙公約は遵守するべきだが、それはそもそも絶対的なものなのだろうか。
 民主党をはじめとして、他の政党のマニフェストを眺めても、党内の議論がどこまで尽くされて作成されたものかどうかは怪しい。民主党も自民党なども、本部の一部の幹部の間で議論されて作成されたという。それが党内で「選挙公約」としてオーソライズされたといっても、機関に諮って追認されただけのものだ。
 模範とされる英国の労働党などでは、それこそ末端の党員や支持者まで集まっての下部組織の議論を踏まえて、最終的に党中央で決定されるのである。民主党の地方議員の誰に聞いても、「マニフェストの作成過程で議論に参加したことはない」と言う。日本と名前は同じでも決定過程がまるで違う。「みんなで議論したのだから、みんなでその実現に向けて努力しよう」というものではないのである。
 マニフェストなどとカタカナにしようがしまいが、政策とは常に検討と修正を加えていくべきものである。いったん決定した政策は絶対に変えないというのがむしろおかしい。おかしいことを強要するのは、日本の政党のマニフェストは、「中央で決定したのだから、みんな従え」という一種のファシズムであるということである。
 件の「16銃士」が、マニフェストの作成にどこまで関与されたのか疑わしい。関与もしていない、議論もしていないマニフェストを金科玉条のように扱って、わけのわからない院内会派を作って政府予算に反対するというのでは、マニフェスト・ファシズムに汚染されているとしか言いようがない。もしそうでないとするならば、それは自分たちの生き残りをかけたパフォーマンスである(私はそれは否定はしない)。比例の下位名簿で当選されたのだから、ある意味危機感は相当なものだろう。そうであるならば、「マニフェストを守れ」などと言わないで、「生き残りのために戦う」と素直に言った方がよほどマシである。

 

本を出版しました 「コミュニティ幻想を超えて」

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 本を出版しました。
 題して『コミュニティ幻想を超えて』です。
 一藝社より出版です。
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 ぜひ御一読ください。

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追悼 ある友人のジャーナリスト

 某出版社の某記者が先月亡くなった。病気だったとのことである。ご本人の希望は、内輪だけの葬儀で済まし、対外的には周知しないでもらいたいとのことだった。そのため匿名である。私はあえて「友人」とその方を言いたい。
 初めて会ったのは、沖縄本島の片田舎だった。たまたま取材先で遭遇したのだった。それ以来、その方とは、様々な取材を一緒に行うことになった。日本全国とまではいかないものの、あちらこちらに「同行」することになった。二人とも酒が好きなため、取材が終わればもちろん宴会である。何度酒席をともにしたのか数えられないぐらいだ。
 宴会での会話は、取材の内容はもちろんのこと、現在の政治や社会あるいはマスコミの現状などを憂うものだった。厳しいジャーナリズムの世界で生き抜くことの難しさを、彼はいつも焼酎の緑茶割を飲みながら語っていた。それで、私も現在はもっぱら焼酎の緑茶割を飲むことにしている。
 彼とはかなりディープな取材をしたことがあるが、それは世に出なかった。とても世に出せるような内容ではなかったのだが、もともと彼は自分で「裏取り」をして、確証を得たものでなければ記事にしなかった。ヤクザさんのような人相と風体だが、ジャーナリストとしての気骨があった人だった。
 彼は北朝鮮問題を自分のライフワークにすると常々語っていた。仕事の上では、その通りにはなかなかいかなかったようだ。だが、この面では、彼に助けてもらったことはあっても、こちらからはあまりお役に立てなかったと思う。北朝鮮問題がこう着している現在だが、これから色々な動きが出てくるだろう。それだけに、彼が亡くなったことは本当に惜しい。御冥福をお祈りしたい。

February 16, 2011

今日の格言 民主政治とは

 「我々は民主政治を信じる。民主政治とは、誰もが自分の生き方を自分で決めることができるということ。すべての人間には、可能性の限りをつくして自分の信じる道を追求する権利がある。」

ハーリー・C・ボイド、ヘザー・ブース、スティーブ・マックス著『アメリカン・ポピュリズム』、亜紀書房、p.96より
アメリカの「シティズン・アクション」の設立声明文とのこと

就職活動の疑問

『ビッグイシュー』161号に、「茶番じみた就活」についての学生たちの対談があった。学生たちの社会に対する本音が語られていて面白い。
彼らの就職活動への疑問は以下のようなもの。
「新卒一括採用・・・既卒者は排除される」
「採用基準・・・ウソが上手く画一化に順応した学生を採用」
「就活の長期化・早期化・・・勉強どころではない」
「失敗は自己責任・・・自己責任にした方が楽。社会制度のせいにするのは勇気がいる」
こうした疑問から彼らは、今の日本社会に批判的な見方を示している。
「自分と違う状況にある人に想いが届かない社会構造がある」
「自己責任ばかりでそこからこぼれた人はほおっておく社会」
「自分の村ばかり関心がある村社会」
「就職しない人間が人間扱いされない社会」
 私も大学を卒業する時に、もちろん就職活動をした。失敗だったとも言えるし、今から思えば失敗したのが良かったとも思える。
そこで、自分の拙い経験からのコメントは以下のようなもの。
「若い時の就職活動で一生が決まるとは限らない」
「失敗を人生の肥やしと思うこと」
「日本の社会の現状はヒドイが、探せばいいこともある」
「みんなと同じようにするのが成功の道ではない」
「甘い」と言われそうだが、そういう「甘い」人生を私は送ってこれた。

February 12, 2011

首長がモンスターなら地方議会は?

読売新聞で「問われる自治」という特集を組んでいる。詳細はお読みいただきたいが、要は、地方議会改革が名ばかりであるということと、それに苛立つ首長がモンスターになっていることについて、さて、どうするかということである。
 現職が負けた阿久根市長選挙と、現職が勝った名古屋市長選挙は、結果は異なるものの、ほぼ同じ構造である。それは、「改革」を名乗る首長派と、それに「抵抗」する議会派という対立構造である。「改革派」のめざすものは、旧態依然とした抵抗勢力である議会を、モンスター化した首長派へと転換させていくことである。それが今の「地域政党」の趣旨である。少し具体的な政策レベルの話になると、阿久根市の場合には、議員の歳費が血祭りにあげられた。名古屋市の場合にも同様に議員歳費の引き下げと、それに引き換えの「恒久減税」である。
 「改革」というわりにはあまりに近視眼的であるし、名古屋のような「恒久減税」といった飴政策が非現実的であることは誰でもわかる。要するに「改革」の中身はともかく、惰眠をむさぼっている議会を徹底的にたたくことで、首長の立場を有利にしようという戦略と戦術ということである。
 こうした首長のモンスター化は、これからしばらくインフルエンザのようにまん延するかもしれない。議会改革が遅れ、口先だけの「改革」を進めているのでは、こうした動きを止めようがない。議員定数の削減とか歳費の引き下げといった市民受けするような「改革」ばかり進めていると、かえって議会の機能や権能を弱らせるだけで、つまるところ市民の利益を阻害することにもなりかねない。議員の定数を限りなく減らしていけば、市民と議員との「距離」は拡大するばかりである。議員歳費を減らしていけば、議員になれるのは暇な金持ちか、強力な宗教団体とか労働組合出身の議員だけになる。それで市民は良いと思うだろうか。
 憲法、地方自治法、その他の関連法規に照らして、地方議会制度を抜本的に検討を進めていかなくてはならない。それは、1990年代から求められてきたにもかかわらず、耳触りのよい、市民受けするようなことばかりがクローズアップされるだけである。議会制度改革とは、まずその当事者である地方議員が提起し、その実現のために汗を流さなくてはならないはずなのに、その動きは緩慢である。もちろん、各地の地方議会で試行錯誤を繰り返しているのは事実であり、それは大いに評価すべきである。さらに、地方議会側が問題提起したとしても、憲法や地方自治法の改正に関わる部分の制度改革は、国政の領域であり、地方議会の及ばない範囲である。しかしながら、今のようなペースで進めていると、ますます首長がモンスター化していくだろう。そして、モンスター化した首長のもとで苦労するのは地方議会であるし、最大の被害者は住民ということになるのである。地方議会側の奮起を望むものである。

February 10, 2011

今日の格言

「道徳的法則は、知性的原因性としての自由の形式であるから、この法則は我々のうちにある主観的な対立物としてのこれらの傾向性に反対して、独りよがりを貶めると同時に、実にそれ自身が尊敬の対象となるのである」

カント『実践理性批判』、岩波文庫、p.155より

*最近あちこちで見られる「モンスター首長」の独りよがりな政策を眺めていると、このカントの格言は重要な示唆を与える。

February 07, 2011

名古屋市長選挙をどう考えるか

 名古屋市長選挙が現職の河村たかし氏の圧倒的な勝利で終わった。賛否がうずまく市税の恒久減税を争点にして、それに消極的な議会側を批判することで市民の喝さいを浴びたわけだ。そして、異例の任期途中での市長辞任、市議会解散さらには地域政党を立ち上げての県知事選挙とのタイアップというように、次々と出された河村市長の「政治的手腕」が大いに発揮された結果だった。
  まずは、次の市議会議員選挙の結果と、河村市長の今後の市政運営を見守ることであろうが、どうしても違和感が否めない。その違和感は、議会側を「目の敵」にして有権者の支持をとりつけるというポピュリズム的手法にある。乱立する「地域政党」は、議会側を「目の敵」にして市民の鬱憤を晴らし、「改革派」を名乗る首長の立場をより有利にしようという戦略を持っており、それに易々と市民が乗っているのである。
名古屋市議会の実態がどうであるかはつぶさには知る由もないが、確かに日本の地方議会は改革が最も遅れた領域である。旧態依然とした地方議会では、住民の様々な要請にしっかりと応えていくことはできなくなる。議会側は、こうした実態に対して、自らが真剣に改革に乗り出さないと、今回のような事態が今後とも各地で起こりうるのである。
首長と議会は地方自治体の「車の両輪」である。その権力の均衡を図るというのが、二元代表制の趣旨である。ところが、今日の地方自治法の体系の下では、議会には政策の「最終的決定権」が付与されているのみで、予算編成権、人事権、政策執行権はすべて首長である。この権力の偏在性に悩んでいるのは、ほかならぬ地方議員であることに、あまりに住民は無理解である。こうした権力の偏在性の中で、今回のように首長が突出してしまうと、車の片輪だけがさらにパワーアップしてしまい、車は同じところをグルグル回るだけになる。つまり、住民にとって、何も得ることがない事態に陥る可能性がある。
どこかの民主党幹部のように「河村市長はヒットラーだ」とまでは言い過ぎだろうが、河村市長のポピュリズム的手法は、住民には受けがいいだけに危険なのである。名古屋市民は目先の減税と議会批判だけで河村市長を支持したわけではないだろうが、ポピュリズム的手法に嵌ったたことは確かだろう。ポピュリズムのもたらす結果は、住民とっては結局のところ負の遺産を残すだけに終わるという事実を、すでに美濃部東京都知事時代に味わった。その負の遺産を、再び名古屋市民が受けることのないようにしてもらいたいものである。

February 03, 2011

今日の格言

「自分達の陳腐な体系を後生大事に守るばかりで、何を是認しまた何を否認すべきかを初めからきめてかかる人達は、何によらず自分の個人的な意図を妨げるおそれのあるような説明を必要としない」

イマニュエル・カント 『実践理性批判』、岩波文庫、p.27

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